最終更新日 2022.9.7



本の紹介
 『公害スタディーズ』
 日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想
 『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ
戦争の教え方−世界の教科書に見る−
子どもたちが地球を救う50の方法
23分間の奇跡
 『愛するということ

村上執筆の論文と本について
戦時下の京都師範学校の教育−1945(昭和20)年における学校長作成文書を資料として−
『戦後日本の平和教育の社会学的研究』2009の正誤表


本の紹介

安藤聡彦・林美帆・丹野春香編著 2021年 『公害スタディーズ:悶え、哀しみ、闘い、語りつぐ』 ころから(出版者)

 私が子どもの頃、公害はニュースで流れる身近な問題であった。近くの川や海も汚染されて泳げなくなり、小学校にプールができた。1956年に水俣病の発生が公的に確認され、1968年に政府は原因を工場から出た有機水銀と認めた。1960年・70年代は日本全国で、大気汚染、水質汚染などが社会問題となり、それへの対策が強化される時期であった。環境悪化は1970年頃にピークを迎え規制が大きく強化された結果、公害の多くは改善された。現在は環境問題という広い視野から対応する時代であり、「公害」という言葉自体が日常生活で見聞きしなくなったと、本書に出会うまでは「思っていた」。だが、2011年の福島原発事故による放射能汚染が「公害」であることを再確認し、私が持っていた公害克服神話は間違っていた。
 本書では、「公害は生きる上での不可欠の行為を介して人間の命と暮らしを蝕みます」が入り口である。まず、私たちのいつもの生活場面を通して、13の日本の公害に出合う。そして7つの立場(患者、患者会、医師、支援者、行政、企業、農業者の各立場)から公害を語り、公害について8種類の学びの実践例を紹介し、5つの公害との向き合い方を示している。資料として、公害資料館のリスト、年表、用語解説も付けている。あとがきに、「次世代へ、未来へ、『公害』の経験と教訓を語りつぎたい」と記されている。「公害スタディーズ」に読者を導くために、著者達の意気込みがわかる本である。
 公害の学び方は、私が専門とする平和教育学に通じるところがある。公害を含めた環境問題では、特定の地域において生命が危険にさらされ、その「加害者」と「被害者」が同居している。それが社会システムに組み込まれた「構造的暴力」の中で起こるという意味で、紛争構造を持つことが多い。本書で挙げられた13の公害事例は、それぞれの歴史と、紛争解決・平和形成の視点から見ることができ、探求学習の好事例である。[以下省略]

任文桓 著 2015年 『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』 筑摩書房(ちくま文庫)

 著者の任文桓(イムムナン)は、1907 年に韓国の中西部にある中清南道で生まれます。この本は 1975年に『愛と民族』という書名で出版された回想録の復刻です。朝鮮人の任は、16 歳の時に貧しい郷里を出て、日本帝国の首都東京を目指して日本に渡ります。郷里の先輩を訪ねて京都駅に降り立ち、今出川の北にある先輩の部屋に滞在する間に関東大震災が起こり、東京に行くのをあきらめます。任は京都で工場職工、牛乳配達夫、人力車夫として朝から晩まで働きます。運良く、同志社中学校の編入学試験に合格します。同志社中学卒業後、岡山にある第六高等学校に入学しますが、これほどまで一生懸命に働き、頑張る苦学生がいるのかという状況を読み進めるうちに、その奮闘ぶりを応援している自分に気付きます。
 この旧制中学校と旧制高等学校の回想では、生徒たちの日常生活が描かれており、当時の学校の情景描写は新鮮な内容です。猛勉強の末に東京帝国大学法学部に入学し、卒業の前年に高等文官行政科試験に合格します。本書のあとがきに「その勉学の全期間を通じて、力ある日本人の助力と、学友たちのいささかも分けへだてのない友情とが、私に賦与され続けたことは、私の人間形成にとってまことに貴重であった」との言葉に救われる気がしました。
 日本の内地(本土)には朝鮮人に優しい日本人がいましたが、外地(朝鮮)では朝鮮民衆を搾取・支配する警察や官僚組織、移住してきた日本人がいました。そうした朝鮮で、任は朝鮮民衆の利益を守ることを胸に秘めて、1935 年から終戦の 1945 年まで、朝鮮総督府下で行政官として勤務します。それは、反日本帝国と糾弾されていつ落ちるかもしれない深淵の上で、「曲芸師の空中ブランコ乗り」を演じていたと、任は具体的に記述します。
1945 年の朝鮮独立後は、総督府の官僚であったという経歴により一転して、「親日民族反逆者」として追い落とされますが、1948 年には行政手腕を買われて李承晩政権の官僚となります。任は、朝鮮戦争(1950〜1953)を辛うじて生き延びることができました。日本人は自国の戦争被害の話には多く接しますが、朝鮮戦争時の朝鮮で何が起こっていたか、朝鮮の人々の体験談は全く聞いていません。北朝鮮軍侵攻時のソウル市の様子、その支配地域からの脱出劇、朝鮮戦争がもたらした惨状を読者は具体的に知ることになります。
 日本は敗戦後、朝鮮半島における分断国家の成立や朝鮮戦争を対岸の出来事と、他人事のように眺めてきました。金大中政権以降、日韓の文化交流や、相互の観光客訪問など人的交流が進みました。しかし、現在の日韓関係は、これ以上悪くならないと言われるほどにこじれており、対韓国感情と対日本感情が改善する方向がまだ見えていません。任は、「地理的位置から言っても密接な関係を絶つことのできない両国の民族への要望を、提言しないではいられなかった」(1975 年記)と記しています。
 

速水融 2006年 『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』 藤原書店
 
 歴史は繰り返し、感染症の世界的流行も繰り返します。中国湖北省の武漢で新型コロナウィルス感染症が流行し、医療現場で患者があふれ治療できない様子が伝えられました。その情景はイタリアとスペインでも起こり、やがていくつもの国で見られるようになりました。 本書は、100年前に世界的に大流行したスペイン風邪(1918〜1920年)について、当時の状況を日本各地で発行された30紙の新聞記事を用いて、全国の様子を丹念に描写しています。スペイン風邪は、1918年に始まり、日本では前後2回の流行期があり大きな被害をもたらしました。流行が起こったのは大正時代であり、その時の光学顕微鏡では細菌しか見ることはできず、スペイン風邪の病原体であるウィルスを発見することはできませんでした。病気に対する有効な防御法はありませんでしたが、マスクとうがいがすでに奨励されていました。
 当時の多くの人々が、神戸須磨の近くにある厄除神(やくよけがみ)を祀る八幡神社に、護符(お守り)を買いに出かけた、と新聞記事にあります。「善男善女で・・・非常な賑いを呈し兵電(兵庫電鉄)は朝の程から鮓(すし)詰(づ)めの客を乗せて月見山停車場に美しい女も職工さんも爺さんも婆さんも十(じつ)把(ぱ)一(ひと)束(から)げで吐き出す」(1920.1.19付)と伝えました。八幡神社では護符が飛ぶように売れた、といいます。今でいえば、新型コロナウィルス感染者のクラスターが、護符を買う参拝者を乗せた満員電車が行き来するたびに発生していた、ことになります。
 有効な対症方法がないまま、京都でもスペイン風邪が蔓延し、患者や死者が増えていきます。「京都日出新聞」(1918.10.19付)の記事には、東洋紡績会社伏見工場の有熱患者や、工兵第16大隊兵士の患者が多数発生していることを記します。1920年になっても、「流感がもたらす惨禍 伏見署管内の状況 一家数名の罹病者多し」の記事(1920.1.27付)は、紀伊郡向島村(現伏見区向島町)の大工の夫婦が続けて亡くなり15歳の娘一人残され、と記します。京都府内だけで、41万人の患者数で、死者は1万1千人を出す惨状となりました(参考:『流行性感冒:「スペイン風邪」大流行の記録』東洋文庫、2008:原典1922)。
 それから100年が経った今、インフルエンザのウィルス学は格段に進歩し、病気によっては、ワクチンの普及や対症方法の備えもあります。しかし、今回は新型ゆえに従来の対応方法は不全であり、医療崩壊を起こす危険があります。当時の日本の罹患状況を知ることは、今回も途上国を中心にそれに近い被害状況が現出する可能性があり、その惨禍の甚大さを予測させます。著者の速水融は、スペイン風邪に晒された人々の悲鳴を聞き、状況を知ってほしいと述べます。感染症の世界的流行は繰り返しますが、人々の英知と協力により被害を最小限にすべきことを、当時の状況を描写するこの本は示唆しています

アース、ワークスグループ編  1993年 『子どもたちが地球を救う50の方法』 ブロンズ新社
 まず本の引用から、「わたしはギデオンに、子どもでも地球を救えると思うかい、ときいた。すると彼がこう答えたんだ。『うーん、どうかな、わかんないや』わたしは彼が『そりゃできるさ!』と答えるのを期待していた。たぶん、自分にはいまの地球を変えることなんかできないと思っている子どもは多いのではないだろうか。」  「反○○」と唱えるだけでなく、それに代わるより良い具体的提案をする「代案型」の活動をするほうが子ども達に信頼されます。この本では、アメリカの実際的な思考方法により、10歳前後の子ども達自身が環境改善に「参加」できる方法をあげています。
 本の中では50のテーマが示されており、例えば「ビンはごみ? とんでもない」「ミミズにエサを」「小川の水の色テスト」「よりよい世界の夢を見よう」など。読者はそれぞれのテーマで示されているたくさんの環境改善の方法から、いくつかを選んで実行しても楽しいでしょう。この本が身の回りの生活を見直すことにより、子ども達独自の方法を見つけだすことへの材料になればもっと良いのではと思います。 子ども達は、自分のできることはしたいと思っているばかりか、自分の役割を果たすことを熱望しています。この本はそんな子ども達に情報を与えて励まし、子ども達にも状況を変える力があるんだという意識を持たせることを目指しています。
 世界的課題について、一人の地球市民として問題解決に参加する方法を考え出す教育システムを、学校教育や社会教育の中に創ることが私たちに求められています。それは創造的な学習であり、子ども達が住むことになる未来への準備に通じるものであります。行動のためのてがかりを見つけ、その手がかりから行動に移れる自由とエネルギーを子ども達に与えたいものです。

ジェームズ、クラベル 1983年 『23分間の奇跡』 集英社文庫
 この本は、アルフォンス・ドーデの有名な「最後の授業」の続編といった内容の本です。授業の終わりに、アメル先生は、黒板に大きな字で「フランス万歳」と書きました。この続きはどうなるのだろう、と興味のある人にはこの本はおもしろいですよ。
 アルザス・ロレーヌ地方と物語の場面は変わりますが、最後の授業の翌日の「最初の授業」に、若くてきれいな女の先生がやってきました。あんなにこわがっていた子どもたちが、新しい先生を大好きになりました。そして、元の国の国旗をバラバラに切ってしまい、先生のいうことをよく聞いていっしょうけんめい勉強しようと思うようになります。 しかし、この先生は子どもたちに制服を着せようとしたり、「指導者」にお祈りさせたり、なにかナチスドイツや戦前日本の天皇制イデオロギーの注入を連想させます。子どもの人格の完成をめざすべき教育と、こうした教化や洗脳とをはっきり区別する必要があります。子ども達にも全体主義への潜在的なあこがれがあるため、特に小学校の教師は注意すべきといえます。
 作者のクラベルが全体主義的教育の舞台裏を見せてくれるので、読者のみなさんが教育の可能性と恐ろしさをこの本により考えてくださればと思います。  また、簡単な文章ですから子ども達にも読んであげて下さい。子ども達はいろんな感想を持ち、教育の不思議さに驚くかもしれません。子ども達にとって、当たり前と思っていた「受ける」教育を、「する側」からの視点で考えさせてくれ、教育を相対化させるのに役立つ教材です。しかし、画一的な教育を受けることに慣れている日本の子ども達に、この本が憤慨や反対や拒否を引き起こすことが無く、あまり違和感を感じさせないのであれば、私達の教育方法について反省する必要があります。23分間で読めます。

別枝篤彦 1983年 『戦争の教え方−世界の教科書に見る−』 新潮社

 核世界戦争の危険性はかなり低くなったが、局地的戦争が勃発する危険性は増加しています。衛星放送で世界のニュースを見ると、画面から戦争の映像が消えることはありません。戦争についてこれからも教え続けることが大切です。また、日本とアジアの若者が出会うとき、日本の若者は自国の行った戦争についてあまりにも知りなさすぎますが、その理由の一つが教科書における記述のあり方ではないでしょうか。 この本は、世界の教科書に書かれている戦争の教え方を紹介したものです。そこには、日本の教師が考えつかなかった戦争についての新しい見方、教え方のヒントがあります。また、戦争について教科書でこんな事まで、またこんなに詳しく教えるのかと驚くかもしれません。
 各国の教科書には、戦争とは何か、人間はなぜ殺し合うのか、さらに戦争を分析する目などについて記述があるものもあります。教科書への戦争の書き方は国により随分と異なり、国によって自国が行った戦争を無視したり、美化したり、深く反省したりしています。また、愛国心、ナショナリズムへ疑問を促している記述もあります。 別枝さんは、日本の教科書では原爆の被害の実態など何一つ記述しておらず、まるで他人事のような記述に終始しており、教科書はかくも「客観的」、無味乾燥な事実だけの記述でよいのかと疑問を述べています。また、日本の教科書には、外国の教科書の特色ともいうべき具体的記述、あるいはそれをふまえての教室での、教師と生徒の一体となった活発な討論の手がかりなどは全く記されていないと批判します。
 子ども達が戦争をいろいろな視点から分析して、戦争にどう対応するか、いかに平和を確保するかを考えることが必要といえます。外国で戦争をどのように学習しているかを話してあげることは、子ども達の歴史を見る目や戦争についての考えを深めるのに役立つと思われます。

エーリッヒ、フロム 1959年 『愛するということ』 紀伊国屋出版

 愛することは技術であると説く『愛するということ』は、著名な心理学者であるエーリッヒ・フロムによって書かれた本です。原本は1956年に書かれ、1959年に翻訳が出された随分と古い本ですが、版を重ねて世界中で読まれています。
 教育学部では、学校で数年に渡って教育されてきた学生を、教育する側に立つことができるように支援します。教師は子どもに対して、教育愛を持つことが期待されていますが、それが何かを学ぶ機会は少ないといえます。若者は恋と愛に関心を持っていますが、多くの場合、愛とは愛されることであり、愛の技術とは愛されるためのファッション・化粧や、話し方や仕草、またデートの仕方などと誤解されています。
 しかし、フロムが述べるのは、愛されることではなく、愛することの理論と実践についてです。フロムによれば、愛するとは自分の中にあるものを与えることであり、それは自身の喜び、興味、知識、ユーモア、時には悲しみなど、自らの命を与えることによって相手を富ませるといっています。
 フロムは、愛について四つの基本的要素を説明します。@愛する者の生命と成長を積極的に配慮すること、A相手の身体的・精神的な欲求に反応する責任を持つこと、B相手の自由とその人がありのままに成長し発達するように尊敬すること、C相手の中核にまでの知識を深めること、などです。四つの愛の基本的要素は、教育愛の要素でもあるので、特に教育にかかわる私達には、愛するという技術は修得が必要であるといえます。
 ただし、愛することは生産的構えを持った成熟した人間にみられるものであり、成熟の途上にある若者は、愛する技術の修得を目ざすべき存在といえます。読みやすい本とはいえないので、じっくりと時間をかけて愛することの意味を真剣に考えるために最適な本といえます。当座の恋に役立つマニュアルを探している人には向いているとはいえません。

村上登司文 2009「戦時下の京都師範学校の教育 −1945(昭和20)年における学校長作成文書を資料として−」『京都教育大学紀要』
   
 「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンがありますが、教え子を戦場に送った教師はどのように養成されたのでしょうか。京都教育大学で学ぶ学生にとって、その前身である京都師範学校で、戦時下にどのような教育が行われたかは、身近な平和教材といえます。当時の師範学校は、高等小学校からは15歳、中学校からは17歳で入学し19歳で卒業しました。
 京都師範学校で1945年前後に作成された公的文書を綴ったたものが、2009年に京都教育大学事務局で見つかりました。本論文は、皇国主義思想を持つ京都師範学校の長岡弥一郎校長が作成した令達(昭和20.4.9〜昭和21.5.2日付け)及び式辞や祭祀を引用しながら、敗戦を挟んだ1年あまりの師範学校の教育状況について考察しています。
 長岡校長による令達の中に、緊迫した戦況下の学徒動員について、「生徒の付添教官は、生徒の死命を握る重大なる責任を担う者として深く敬意を払う者なり。ゆえに教官は、一言一行といえども生徒の信頼を失うがごときこと無きよう。否、教官の下には莞爾[にっこり]として死につくだけの信頼感を持ちいるよう細心の配慮ありたし(昭20.5.29)。」また、戦意高揚のための令達として、「学校における諸会合催しにおいて、例えば壮行式、離任式などにおいてなす挨拶感想等はすべて積極、明朗、闊達にして必ず戦意高揚に資するものたるべく、消極感傷の気分に流るるがごときことなきよう師弟各々厳に戒められたし(昭20.6.21)」(現代表記に改めました)とあります。
 その年の8月に敗戦となり、長岡校長はGHQによる教育指令に戸惑いながらも、その教育政策に追従します。けれどもGHQ命令による教職員適格審査において、長岡校長が文部省教学官のときに、極端な国家主義および軍国主義的思想を持って、学校教育を指導したことなどにより教員不適格と判定され、京都師範学校長を免職になります